《フクロウ便り》続・佐村河内氏問題から写真を考える~作品の評価とは~

yamatofly

佐村河内氏問題から写真を考える~作者は誰か~からのつづき

引続き、佐村河内氏の問題について考える。
今回は、作品とは何か、という観点からこの問題を考えてみたい。

はからずも「HIROSHIMA」をはじめ数々の曲は、佐村河内氏の悲しくミステリアスな境遇というバブルに煽られ大ヒットを遂げる。やがて、その真相が明らかになり、スキャンダルとともに奈落の底に転落することになるのだが、こういった作者の数奇な運命は、とかく大衆の感情をくすぐるのであろう。

佐村河内氏を取り上げたNHKドキュメンタリー特番は「魂の旋律~音を失った作曲家」というタイトルだったそうだ。このタイトルのごとく彼の苦悩を思い描きながら聴くからこそ曲は人々の心に響いたのだろう。氏を絶賛していた一部の専門家が今、バッシングを受けていると聞いた。つまり、一般人だけでなくプロも酔わされていたのだ。

であるとするならば、曲の評価とはいったい何なのだろう。
今回のスキャンダルから、単に曲そのものではなかったことは明らかである。

考えてみれば、音楽に限った話ではない。文学の世界でも、悲惨な境地に追いやられた作家が魂を削って書いたとされる作品は高く評価される。これは、写真界においても同じだ。

ここに、ポンと小さなプチトマトが一つ写されただけの写真があったとする。これがキャパの撮影として美術館に飾られいたとするならば、私は入場料を払って美術館に出向き、その作品の奥に隠された謎を解こうと努力するだろう。しかし、この写真が園児の撮ったものだと知っていたらどうだろう。私は「上手に撮れたね。今度は、トマトをもっと大きく撮りましょうね」とこの子に助言するかもしれない。

だれが撮った写真か、そんな先入観を排除するために、昨今の写真コンテストでは、応募者の氏名や経歴を伏せてその作品自体を評価しようという動きが主流になってきているらしい。では、この方法ならば作品そのものを評価したと言えるのだろうか?

先の写真に「トマト」というタイトルをつけた場合と、「ひとりぼっち」というタイトルをつけた場合では、やはり作品としての奥行きも見る人の印象もずいぶん違ってくるだろう。つまり、いくら応募者名を隠したとしても、写真以外の要因が少なからず評価の対象となっていることは紛れもない事実なのだ。

実は以前の私には、完全に写真だけで評価するのが本来の姿である、という信念があった。〇〇先生の撮った奇跡のポートレート、○○を実体験した人のドキュメンタリー・・・といったものに対する強い嫌悪感。
そんなものは、見る人を事前に陶酔させてけむに巻くためのトリックであり、写真そのものの価値とは無関係なはずだと。

しかし、佐村河内氏問題があって、少し考え方が変わった。
考えてみれば、音楽にしろ、文学にしろ、写真にしろ、作品を人間が評価する以上、作者の背後にあるものまで全てひっくるめて作品として評価する方がむしろ自然なのではないかと。なぜなら、「HIROSHIMA」がこれほどまで多くの人を魅了し感動を与えてきたことがその証しであるし、感動を与えることこそが芸術の魅力そのものだと思うから。もちろん、だからといって今回の佐村河内氏のウソが肯定されるはずはない。その作者のバックボーンが真実であるのが大前提だ。

いずれにしても、佐村河内氏問題が、私に写真というものを再考させてくれるきっかけになったのことは間違いない。

 

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